本文
夏の終わり、蝉の声がまだ耳に残る頃だった。私は、祖父の遺した古民家を整理するために、数年ぶりに故郷の村へと帰ってきた。古民家は、村の奥深く、鬱蒼とした木々に囲まれた場所にひっそりと佇んでいた。
子供の頃は、夏休みになるたびにこの家に来て、祖父と裏山の探検をしたり、庭で花火をしたりして過ごした。しかし、祖父が亡くなってからは、誰も住む人がいなくなり、荒れ果てていくばかりだった。
家の中は埃っぽく、蜘蛛の巣が張り巡らされていた。私は、窓を開け放ち、風を通して換気をしながら、少しずつ片付けを始めた。
その日の夕方、庭の奥に古井戸があることに気が付いた。井戸は、石垣で囲まれており、苔むしていた。覗き込んでみると、底が見えないほど深く、ひんやりとした空気が漂っていた。
子供の頃、祖父から「あの井戸には、決して近づいてはいけない」と厳しく言われていたのを思い出した。理由は教えてくれなかったが、祖父の真剣な表情が、子供心にも恐ろしく感じられた。
私は、井戸に近づかないように気をつけながら、片付けを続けた。しかし、その日から、奇妙なことが起こり始めた。
夜になると、どこからともなく、女のすすり泣く声が聞こえてくるようになった。最初は、風の音かと思ったが、明らかに人の声だった。声は、決まって井戸の方から聞こえてくるようだった。
また、夢を見るようになった。夢の中で、私は井戸の中に立っており、暗闇の中から無数の手が伸びてきて、私を引きずり込もうとするのだ。夢から覚めると、全身が冷や汗でびっしょり濡れていた。
私は、恐怖を感じながらも、井戸のことが気になって仕方なかった。祖父が、なぜあんなに厳しく井戸に近づくことを禁じたのだろうか。井戸には、一体何が隠されているのだろうか。
ある日、私は、村の古老に井戸について尋ねてみることにした。古老は、私の顔を見るなり、何かを察したように、重い口を開いた。
「あの井戸は、昔、この村で起こった悲しい事件に関わっておる。昔々、あの井戸の近くに住む美しい娘が、恋人に裏切られ、井戸に身を投げたのだ。それ以来、井戸からは、娘の幽霊が現れると言われておる」
古老の話を聞いて、私は背筋が寒くなった。夢の中で見た手の正体は、もしかすると、娘の幽霊だったのかもしれない。
それでも、私の好奇心は止まらなかった。私は、井戸の秘密を暴こうと決意した。
次の日、私は、懐中電灯とロープを持って、井戸へと向かった。井戸の周りは、昼間でも薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。
私は、ロープを井戸の中に垂らし、懐中電灯で照らしながら、ゆっくりと降りていった。井戸の中は、じめじめとしており、カビ臭い匂いが鼻をついた。
しばらく降りると、井戸の底に水が溜まっているのが見えてきた。私は、水に足を浸しながら、周りを注意深く観察した。
すると、井戸の壁面に、何かの文字が刻まれているのを見つけた。文字は古く、判読するのが難しかったが、よく見ると、人の名前のようなものが書かれているのが分かった。
私は、名前を必死に読み解こうとした。その時、背後から、冷たい気配を感じた。振り返ると、そこには、長い髪を垂らした、白い着物の女が立っていた。
女の顔は、蒼白く、目は虚ろだった。女は、ゆっくりと私に近づいてきた。私は、恐怖で体がすくみ、声も出なかった。
女は、私の目の前まで来ると、静かに口を開いた。「あなたは、誰?」
私は、震える声で答えた。「私は、この家の孫です。井戸のことが気になって、調べに来ました」
女は、私の言葉を聞くと、悲しそうな表情を浮かべた。「あなたは、知らないのね。この井戸に隠された、本当の秘密を」
女は、ゆっくりと語り始めた。昔、この村に住む美しい娘が、恋人に裏切られ、井戸に身を投げた。しかし、娘は、自殺ではなかった。恋人に殺されたのだ。
恋人は、娘を殺した後、井戸の中に隠し、その罪を隠蔽した。村人は、娘が自殺したと思い込み、誰も真相を知ることはなかった。
女は、娘の幽霊だった。女は、自分の無念を晴らしてくれる人を、ずっと待っていたのだ。
私は、女の話を聞いて、衝撃を受けた。井戸には、悲しい過去が隠されていたのだ。
女は、私に頼んだ。「私の無念を晴らしてください。恋人を、告発してください」
私は、女の頼みを聞き入れた。私は、村に戻り、警察に事件のことを話した。警察は、捜査を開始し、事件の真相を暴こうとした。
しかし、事件は、既に時効を迎えており、恋人を告発することはできなかった。私は、無力感に苛まれた。
女は、私に言った。「あなたは、よくやってくれました。ありがとう」
女は、微笑みながら、消えていった。私は、井戸の前で、手を合わせた。
その日から、井戸から女のすすり泣く声が聞こえることはなくなった。私は、井戸の秘密を暴いたことで、女の無念を晴らすことができたのだ。
しかし、私は、今でも、夢を見る。夢の中で、私は井戸の中に立っており、暗闇の中から無数の手が伸びてきて、私を引きずり込もうとするのだ。夢から覚めると、全身が冷や汗でびっしょり濡れている。
井戸の怪談は、これで終わりではない。井戸は、今も、村の奥深く、ひっそりと佇んでいる。そして、いつか、再び、誰かを恐怖に陥れるかもしれない。