あらすじ:
静かな田舎町。若い女性、美咲は、実家の古い井戸から聞こえる奇妙な音に悩まされていた。それは泣き声のようでもあり、うめき声のようでもあり、夜な夜な彼女の眠りを妨げる。村の古老から、その井戸には悲しい過去があることを聞かされる。かつて、娘を井戸に落としてしまった母親の呪いが宿っているというのだ。美咲は真実を確かめるため、井戸の底へと向かうことを決意する。そこで彼女が見たものは、想像を絶する恐怖だった。
第一ブロック:井戸の異音
夏の夜、虫の音が耳を劈くほどに響き渡る。築年数を重ねた木造家屋の二階で、美咲は寝返りを打った。障子を透かして見えるのは、墨で塗りつぶしたような漆黒の闇。その闇を震わせるように、微かな音が聞こえてくる。
「……う、う……」
泣いているようにも、呻いているようにも聞こえる、それは奇妙な音。最初は気のせいだと思った。疲れているのだろうと。しかし、音は次第に大きくなり、まるで耳元で囁かれているかのように鮮明に聞こえてくる。
音源は、家の裏手にある古井戸。物心ついた時からそこにある、使われなくなった井戸。手入れされることもなく、蔦が絡みつき、昼間でも薄暗い。言いようのない不気味さが漂い、普段は意識的に近づかないようにしていた場所だ。
しかし、音は止まない。むしろ、激しさを増していく。抑えきれない好奇心と、僅かな恐怖に背中を押され、美咲は懐中電灯を手に井戸へと向かった。照らされたのは、生命力を持て余したように生い茂る雑草。そして、底の見えない、闇を湛えた井戸の口。懐中電灯の光を慎重に井戸の中へと向ける。
「……どなたか、いらっしゃいますか?」
声は震え、闇に吸い込まれていく。返事は期待していなかった。しかし、その沈黙を破るように、井戸の底から今までよりも大きく、そして悲痛なうめき声が響き渡った。まるで底なし沼に引きずり込まれるような恐怖に襲われ、美咲は悲鳴を押し殺し、家へと駆け込んだ。その夜、井戸の音が耳から離れることはなく、浅い眠りさえも許されなかった。
翌朝、寝不足と不安で憔悴した美咲は、村の古老である源じいを訪ねた。長年村の歴史を見守ってきた源じいは、まるで生き字引のような存在だ。
「井戸から音が、ですか…。それは、古くからこの地に伝わる話ですよ」
源じいは深く刻まれた皺をさらに深くし、遠い昔を回想するように語り始めた。曰く、その井戸があった家には、かつて若い母親と愛らしい娘が住んでいた。母親は娘を何よりも大切にしていたが、ある日、不慮の事故で娘は井戸に落ち、命を落としてしまった。母親は自らを責め、深い悲しみに暮れる中、井戸の前で娘の名前を呼び続け、やがて心身を蝕まれ、衰弱死したという。村人たちは、その母親の霊が今も井戸の周りを彷徨い、娘を呼ぶ声が聞こえるのだと囁き合っている。
源じいの話を聞き終えた美咲は、全身に氷水を浴びせられたような感覚に陥った。まさか、幽霊の仕業だというのだろうか。美咲は、源じいにさらに詳しく井戸について教えてほしいと懇願した。源じいはしばらく沈黙した後、重々しく口を開いた。
「あの井戸は、ただの井戸ではない。現世とあの世を繋ぐ、特別な場所…。井戸の底には、計り知れない恐ろしい何かが潜んでいる。決して、近づいてはなりません」
源じいの言葉は、美咲の心に深く突き刺さった。井戸の呪いを解き放つことができるのだろうか。それとも、抗うことなく井戸の底へと引きずり込まれてしまうのだろうか。不安と恐怖が、美咲の心を蝕んでいった。
第三ブロック:井戸の調査
源じいから聞かされた話が頭から離れず、いてもたってもいられなくなった美咲は、日中の明るいうちに、再び井戸へと向かった。今度は、懐中電灯に加え、ロープとバケツ、そして勇気を振り絞って持ってきた塩を携えて。
井戸の縁に立ち、深淵を覗き込む。底は見えず、ただ暗闇が広がっている。慎重にロープを垂らしてみたが、底までは届かない。想像以上に深い井戸だということがわかった。
バケツを使って井戸の水を汲み上げてみる。濁った水からは、土の匂いが強く漂ってくる。そして、その水の中に、黒いものが混じっていることに気づいた。目を凝らしてよく見ると、それは長い髪の毛だった。艶やかな黒髪が、蛇のように水面を漂っている。
美咲は、思わず手を滑らせ、バケツを落としてしまった。水面に広がる波紋に合わせて、髪の毛が不気味に揺れる。鳥肌が立ち、背筋が凍り付くような感覚に襲われた。これは、まさか…。
その時、井戸の奥底から、再びあのうめき声が聞こえてきた。今までよりもずっと近く、まるで耳元で囁かれているかのように、生々しい声。
「……たすけて……」
悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、震える声で問いかけた。
「あなたは、誰?一体、何なの?」
しばらくの沈黙の後、今までとは全く異なる、氷のように冷たく、底知れない闇を孕んだ声が響き渡った。
「……お前も、同じ苦しみを味わうがいい……」
美咲は、恐怖のあまり足がすくみ、その場にへたり込んでしまった。井戸に巣食う何かが、確実に彼女を捕らえようとしている。
第四ブロック:井戸の底へ
あの夜から、美咲は悪夢に苛まれるようになった。井戸の底に引きずり込まれ、無数の手に絡みつかれる悪夢。そして、絶望に染まった母親の亡霊に、暗闇の奥底まで追いかけられる悪夢。眠るたびに恐怖が蘇り、精神は疲弊していくばかり。このままでは、自分自身が壊れてしまうかもしれない。
美咲は、ついに決意した。この呪いを終わらせるためには、自ら井戸の底へ向かうしかない。覚悟を決め、古い作業着に身を包み、ロープをしっかりと体に結び付けた。手には、わずかな希望を託し、懐中電灯を握りしめる。
井戸の中は、想像を絶するほどの暗闇と湿気に満ちていた。壁面は苔で覆われ、ぬめりとした感触が不快感を増幅させる。一歩ずつ、慎重に足を下ろしていく。やがて、足先に冷たい水が触れた。底の見えない泥濘のような水は、生きた何か蠢いているかのような、おぞましい感触を伝えてくる。
意を決して、懐中電灯の光を足元へ向けた。その光に照らし出されたのは、おびただしい数の白い手だった。まるで、水底から生えてきたかのように、無数の手が蠢いている。それは、想像を絶する光景だった。白い手は、一斉に美咲の足首を掴もうと、恨めしそうに手を伸ばしてくる。
悲鳴を上げそうになるのを堪え、体をよじって逃れようとする。しかし、白い手は執拗に足首を掴み、離さない。必死にロープを掴み、上へ登ろうとするが、白い手はさらに力を込め、美咲を泥濘の中へ引きずり込もうとする。絶望的な状況の中、美咲は死を覚悟した。
第五ブロック:呪いの真相
死を覚悟した瞬間、美咲の脳裏に、源じいの言葉が鮮明に蘇った。「あの井戸は、現世とあの世を繋ぐ特別な場所…」。そうだ、ここはただの井戸ではない。ここは、娘を失った母親の魂が、永遠に彷徨い続ける場所なのだ。そして、この無数の白い手は、娘を救えなかった母親の、底知れない後悔と絶望の具現化なのだ。
美咲は、溢れる涙を拭うこともせず、震える声で叫んだ。「お母さん!私は、あなたを恨んでなんかいない!あなたは、精一杯、娘さんを愛していた。もう、自分を責めないで!どうか、安らかに眠ってください!」
美咲の叫びは、井戸の奥底まで響き渡った。すると、信じられないようなことが起こった。無数の白い手は、徐々に力を失い、まるで溶けるように、美咲の足首から離れていった。そして、あの日からずっと聞こえていたうめき声も、次第に小さくなり、やがて完全に消え去った。井戸の中は、深い静寂に包まれた。
力を振り絞り、ロープを掴んでゆっくりと井戸から這い上がった。外に出ると、夕日が西の空を赤く染め上げ、一日の終わりを告げていた。深く息を吸い込み、肺いっぱいに新鮮な空気を満たす。そして、静かに井戸に向かって頭を下げ、感謝の言葉を呟いた。「ありがとうございました…」
その日から、美咲は再び安眠を取り戻した。井戸から聞こえてくる奇妙な音に悩まされることも、二度となかった。数日後、美咲は村を離れ、新たな人生を歩み始めた。しかし、井戸で体験した出来事は、決して忘れ去られることはないだろう。いつか、あの井戸で起きたことの真相を、誰かに伝えなければならない。それが、生き残った者の使命だと感じながら。
こうして、井戸女の呪いは、静かに終わりを迎えた。