夜の帳が下りた商店街。シャッターが閉まり、ネオンサインだけが寂しげに光る。私はいつも、この時間になると商店街を散歩するのが日課だ。特に目的はない。ただ、昼間の喧騒が嘘のような静けさの中に身を置くのが好きなのだ。今日は少し違う。商店街の隅に、見慣れない自動販売機が置かれている。
古びた錆色の筐体。液晶画面は暗く、点灯していない。近づいてよく見ると、手書きの文字で「夢、売ります」と書かれている。夢…?私は首を傾げた。一体、どんな夢が売られているのだろうか。好奇心に駆られた私は、自販機をじっと見つめた。
ボタンはいくつかあるが、どれも文字がかすれて読めない。適当に一つ押してみようかとも思ったが、なんだか不気味な気がして躊躇した。ふと、自販機の側面に小さな扉があることに気づいた。鍵はかかっていない。そっと開けてみると、中には小さな紙片がぎっしりと詰まっている。
一枚取り出して広げてみた。「空を飛ぶ夢」と書かれている。裏面には、「副作用:高所恐怖症」と小さく注意書きがあった。空を飛ぶ夢、か。子供の頃はよく見たものだ。しかし、高所恐怖症になるのは勘弁願いたい。私は紙片を元に戻し、別のものを探した。
次に手に取った紙片には、「大金持ちになる夢」と書かれていた。裏面には、「副作用:孤独」の文字。大金持ちは魅力的だが、孤独は嫌だ。私はまたもや紙片を戻した。一体、どんな夢が売られているんだ?どれもこれも、何かしら代償を伴うものばかりだ。
私は、紙片を漁るのをやめた。どうやら、この自販機で売られている夢は、ただ甘いだけの夢ではないようだ。欲望と代償。人生の縮図のようだと、私は思った。ふと、背後から視線を感じた。振り返ると、商店街の奥から、人影がこちらに向かって歩いてくるのが見える。
暗くて顔はよく見えない。だが、その人影は、ゆっくりと、しかし確実に私に近づいてくる。私は少し不安になった。こんな時間に、誰だろうか。私は、自販機から離れて、人影から距離を取ろうとした。しかし、足がすくんで動けない。
人影は、私の目の前で止まった。ぼんやりとした街灯の光に照らされ、その顔が明らかになった。それは、私自身だった。いや、正確には、私にそっくりな、しかしどこか違う、不気味な笑顔を浮かべた私だった。
「おや、お客様ですか」と、もう一人の私は、ニヤニヤしながら言った。「どんな夢がお望みですか?当店では、お客様の潜在意識に眠る、最高の夢をご用意しておりますよ」
私は恐怖で声が出なかった。目の前にいるのは、いったい何者なのだろうか。夢を売る自販機の番人か?それとも、私の心の闇が生み出した幻覚か?私は、ただ震えることしかできなかった。
「大丈夫ですよ」と、もう一人の私は、私の肩に手を置いた。「何も怖いものはありません。さあ、あなたの夢は何ですか?言ってみてください。私が叶えてあげますよ」
私は、勇気を振り絞って言った。「私は…、ただ、普通の夢が見たいんです。幸せな家族と、温かい家庭…、そんな夢が…、見たいんです」
もう一人の私は、少し困ったような顔をした。「それは…、難しいですね。当店では、刺激的な夢しか取り扱っておりません。平凡な夢は、お客様自身で見ていただくしか…」
私は、少しがっかりした。やはり、この自販機では、普通の夢は手に入らないのか。欲望と代償。刺激とリスク。それが、この自販機のルールなのだ。私は、もう一度自販機を見つめた。そして、ある紙片が目に留まった。
それは、「悪夢を見る夢」と書かれていた。裏面には、「副作用:朝の目覚めが爽快」と書かれている。悪夢…、か。悪夢を見る夢を見る。それは、一体どんな夢なのだろうか。私は、少し興味を惹かれた。
「悪夢を見る夢…、ですか」と、もう一人の私は、ニヤリと笑った。「なかなかマニアックな夢ですね。よろしい、お客様。特別に、最高の悪夢をお見せしましょう」
もう一人の私は、自販機に手をかざした。すると、液晶画面が点灯し、不気味な映像が映し出された。それは、私の過去のトラウマ、未来への不安、そして、心の奥底に隠された恐怖が具現化した、恐ろしい悪夢だった。
私は、その映像に見入ってしまった。恐怖と嫌悪感で吐き気がするほどだったが、なぜか目が離せない。悪夢は、どんどんエスカレートしていき、私の精神を蝕んでいく。私は、自分が崩壊していくのを感じた。
しかし、同時に、奇妙な感覚も湧き上がってきた。それは、解放感だった。悪夢を見ることで、心の奥底に溜まっていたネガティブな感情が浄化されていくような、そんな感覚だった。
そして、悪夢が終わった。液晶画面は消え、自販機は再び静寂に包まれた。もう一人の私は、満足そうに笑っている。「いかがでしたか、お客様。最高の悪夢でしたでしょう?」私は、震える声で言った。「ええ…、まあ…、そうですね」
その夜、私は悪夢を見た。しかし、朝目覚めた時、不思議なほど爽やかな気分だった。夢を売る自販機は、もうどこにもなかった。私は、あの夜の出来事が、現実だったのか、それともただの夢だったのか、今でもわからない。ただ、あの悪夢を見たことで、私は少しだけ強くなれた気がする。そして、夜の商店街を歩くのが、少しだけ怖くなったのも事実だ。