壁のシミが、話しかけてくるようになった。
正確に言うと、話しかけてくる“ように”感じるようになった、の方が正しいかもしれない。もちろん、シミが実際に口を開いて何かを喋るわけではない。しかし、あのシミは、確かに何かを訴えかけてくるのだ。
それは、引っ越してきてから3ヶ月ほど経った頃に始まった。築年数不明、家賃格安の物件。内見の際、不動産屋は「多少、古めかしいですが、その分、落ち着けますよ」と曖昧な表現を使ったが、要はボロアパートだ。
壁という壁には、染み、ヒビ、剥がれが目立つ。特に酷いのが、寝室の壁だ。天井から床にかけて、巨大なコーヒーをこぼしたような、あるいは、抽象画のようなシミが広がっている。
最初は、ただの汚れだと思っていた。しかし、毎日見ているうちに、そのシミが微妙に形を変えていることに気づいた。まるで、生き物のように、ゆっくりと、しかし確実に、その姿を変えていくのだ。
そして、ある日。私は、そのシミが何かを伝えようとしていることに気づいた。「助けて」と、微かに聞こえたような気がした。
気のせいだ、と自分に言い聞かせた。疲れているだけだ、と。しかし、次の日も、その次の日も、シミは形を変え続け、私に何かを訴えかけてくる。日に日に、その訴えは強くなっていく。
私は、そのシミについて調べ始めた。インターネットで検索したり、図書館で古い文献を調べたり。しかし、壁のシミが話しかけてくる、などという事例は見つからなかった。
唯一、手がかりになりそうなのは、昔の言い伝えだ。古い家には、壁に魂が宿ることがある、という。その魂は、過去の出来事や、その家に住んでいた人々の記憶を抱え込み、時折、姿を現したり、声を発したりするという。
もし、このシミに魂が宿っているとしたら?そして、その魂が私に助けを求めているとしたら?
私は、シミに向かって話しかけてみた。「何か困っていることがあるの?教えてくれる?」
すると、シミは一瞬だけ、大きく形を変えた。まるで、頷くように。そして、再び静止した。
私は、勇気を振り絞って、シミに触れてみた。冷たくて、湿っていて、まるで生きているようだった。
その瞬間、私の頭の中に、映像が流れ込んできた。古いアパートの一室。若い女性が、必死に何かから逃げようとしている。しかし、逃げ場はなく、男に追い詰められていく。
そして、映像は途切れた。
私は、その映像の意味を理解した。このアパートで、過去に何か事件があったのだ。そして、その事件の被害者の魂が、壁のシミに宿り、私に助けを求めているのだ。
私は、警察に相談しようと思った。しかし、証拠は何もない。壁のシミが話しかけてくる、などと言っても、相手にされるはずがない。
そこで、私は、自分自身で事件を解決することにした。まずは、このアパートの過去を調べることから始めた。古い新聞記事や、地域の歴史を調べていくうちに、ある事件が目に留まった。
10年前、このアパートで、若い女性が殺害された事件があった。犯人は逮捕されたが、動機は不明のままだった。
私は、その事件の犯人の名前を調べてみた。そして、驚愕した。犯人の名前は、私が今住んでいるアパートの大家の名前と同じだった。
もしかしたら、大家は、事件を隠蔽するために、アパートを安く貸し出しているのかもしれない。そして、被害者の魂は、事件の真相を暴くために、私を選んだのかもしれない。
私は、大家に直接話を聞くことにした。しかし、大家は、事件について何も知らない、と主張した。むしろ、私が事件のことを持ち出したことに、不快感を示した。
私は、大家が何かを隠していることを確信した。そこで、私は、アパートの他の住人に、過去の事件について聞いてみることにした。
すると、一人の老人が、事件について詳しく語ってくれた。その老人は、事件当時、このアパートに住んでおり、被害者の女性とも親しかったという。
老人の話によると、被害者の女性は、大家から執拗に付きまとわれていたという。女性は、何度も大家を拒否したが、大家は諦めなかった。そして、事件が起きたのだ。
私は、老人の証言を録音し、警察に提出した。そして、警察は、再び事件の捜査を開始した。
数日後、大家は逮捕された。そして、事件の真相が明らかになった。大家は、被害者の女性を殺害したことを認めた。動機は、女性への執着だった。
事件は解決した。しかし、壁のシミは、まだ残っていた。
私は、シミに向かって話しかけた。「もう大丈夫だよ。事件は解決したから」
すると、シミは、ゆっくりと形を変えた。そして、最後に、微笑んだように見えた。
次の日、壁のシミは、消えていた。
私は、引っ越すことにした。もう、あの部屋には住めない。しかし、不思議なことに、私は、あの壁のシミに感謝していた。
あのシミは、私に、正義とは何か、勇気とは何かを教えてくれた。そして、何よりも、孤独な魂を救うことの尊さを教えてくれた。
新しいアパートの壁は、綺麗だった。しかし、私は、壁のシミが少し恋しい。
もしかしたら、また、どこかの壁で、誰かが私に話しかけてくるかもしれない。そんな気がしている。