「壁のシミってさ、不思議だよねぇ」
僕は、そう言いながら、古びたアパートの壁に広がるシミをじっと見つめていた。そのシミは、まるで人の顔のようにも見えるし、古い地図のようにも見える。日に日に形を変えているような気もするから不思議だ。
「何が不思議なの?」
隣に座る友人のケンジは、テレビゲームに夢中で、僕の言葉にほとんど注意を払っていないようだった。
「だって、このシミ、たまに喋りかけるんだよ」
ケンジは、コントローラーから目を離さずに、「へぇ、おもしろいね」とだけ答えた。
僕は、少しむっとして、「本当だよ。聞こえないの? ほら、今も何か言ってる」
ケンジは、仕方なさそうにゲームを中断し、壁のシミを見た。「何も聞こえないけど。お前、疲れてるんじゃないの?」
確かに、最近は仕事が忙しくて、睡眠不足が続いていた。幻聴でも聞こえているのだろうか。
その日から、僕は壁のシミの声にますます悩まされるようになった。最初は小さな囁き声だったものが、次第にハッキリとした言葉として聞こえるようになったのだ。
「帰れ……帰れ……」
シミの声は、いつも同じ言葉を繰り返していた。まるで、僕をこのアパートから追い出そうとしているかのようだった。
僕は、ケンジに相談したが、彼は取り合ってくれなかった。「病院に行った方がいいんじゃないか?」と真剣な顔で言われた。
しかし、僕にはシミの声が、ただの幻聴ではないような気がしていた。何か、もっと深い意味が隠されているような気がしてならなかった。
ある夜、僕はシミの声に導かれるように、壁に手を触れた。すると、不思議なことに、壁の一部がへこみ、小さな穴が現れたのだ。
穴の中は、真っ暗で何も見えなかった。しかし、奥から冷たい風が吹き出し、シミの声が一段と大きく聞こえてきた。
「帰れ……帰れ……ここはお前のいるべき場所ではない……」
僕は、恐怖を感じながらも、穴の中に手を伸ばした。すると、何かに触れた。それは、冷たくて硬い、金属のような感触だった。
思い切って穴の中に手を突っ込み、その金属を取り出してみた。それは、古い鍵だった。
鍵を見た瞬間、僕は、なぜか強烈な既視感を覚えた。この鍵に見覚えがある。まるで、ずっと昔から知っていたかのように。
僕は、鍵を握りしめ、シミの声に問いかけた。「これは、何だ?」
すると、シミの声は、初めて違う言葉を発した。「開けろ……開けろ……封印を解き放て……」
僕は、言われるがままに、鍵をアパートのどこかに合う鍵穴はないかと探し始めた。そして、ついに見つけた。それは、普段は家具で隠されている、古くて小さな扉だった。
鍵を鍵穴に差し込むと、カチッと音がして、扉が開いた。扉の奥は、やはり真っ暗だったが、微かに光が漏れているのが見えた。
僕は、覚悟を決めて扉を開けた。すると、目の前に広がったのは、信じられない光景だった。そこは、僕が住んでいるアパートとは全く違う、異世界のような場所だったのだ。
異世界は、不気味な植物が生い茂り、奇妙な生物が徘徊する、まさに怪奇に満ちた場所だった。そして、その中心には、巨大な石碑が立っており、石碑には、僕の名前が刻まれていた。
僕は、ようやく理解した。このアパートは、異世界への入り口だったのだ。そして、壁のシミは、異世界の住人たちが、僕に帰還を促すために作ったものだったのだ。
僕は、異世界に足を踏み入れた瞬間、自分の記憶が蘇った。僕は、かつてこの世界の住人であり、ある理由から、人間の世界に追放されたのだ。
「帰れ……」というシミの声は、僕に対する呪いではなく、故郷への温かい呼びかけだったのだ。僕は、アパートに戻り、ケンジに別れを告げた。そして、再び異世界へと旅立った。壁のシミは、微笑んでいるように見えた。
ケンジは、僕がいなくなったアパートで、壁のシミが消えていることに気づいた。彼は、ただ首を傾げただけだった。何も知らずに……。