ねえ、見た? あの壁のシミ、喋り始めたんだよ。
最初は気のせいかと思った。だって、シミだもん。ただの、古びた家の壁にできる、あのなんとも言えない形の、気持ち悪いシミ。それが、ある夜、突然囁き始めたんだ。
「…喉が渇いた…」
最初は風の音か、あるいは冷蔵庫の唸り声だと思った。でも、違った。それは確かに、壁から聞こえてきたのだ。掠れて、弱々しい、まるで水を含んだスポンジを絞るような音で。
僕は、少し興奮した。だって、こんな面白いこと、そうそうないじゃない?壁のシミが喋るなんて!SF作家としては、これはもう、最高のネタだ。僕は、シミに向かって話しかけた。
「誰だい、君は? なんでそんなところにいるんだ?」
シミは、しばらく沈黙していた。そして、また、囁いた。
「…助けて…」
僕は、少し真剣になった。これはただの面白い現象じゃないかもしれない。もしかしたら、本当に誰かが、壁の中に閉じ込められているのかも…。
壁を叩いてみた。コンコンと、乾いた音が響く。中は空洞じゃない。完全に、壁だ。でも、あの声は?
僕は、工具箱からドリルを取り出した。少し躊躇したが、好奇心には勝てなかった。それに、もしかしたら、誰かの命が関わっているかもしれない。
壁にドリルを当てた。ブーンという音と共に、白い粉が舞い上がる。少しずつ、少しずつ、壁に穴が開いていく。穴から、かすかに湿った、土のような匂いがした。
穴が、顔が覗けるくらいの大きさになった時、僕はドリルを止めた。そして、ゆっくりと、穴の中に目を凝らした。
そこには、何もなかった。ただ、湿った土と、小さな虫たちが蠢いているだけだった。
僕は、がっかりした。結局、ただの勘違いだったのか。でも、あの声は一体なんだったんだ?
諦めきれず、僕はもう一度、シミに向かって話しかけた。
「誰もいないじゃないか。君は一体、何なんだ?」
シミは、また沈黙していた。そして、今度は、はっきりと、僕に聞こえる声で言った。
「…君の心の声だ…」
僕は、ぞっとした。僕の心の声?そんな馬鹿な。僕は、別に誰かに助けてほしいなんて思っていない。少なくとも、自覚はない。
でも、シミは続けた。
「…孤独だ…誰にも理解されない…助けてほしい…」
僕は、言葉を失った。シミが語る言葉は、まるで僕の心の奥底に隠された、ドロドロとした感情そのものだった。誰にも言えなかった、誰にも気づかれたくなかった、本当の気持ち。
僕は、慌てて穴を塞いだ。セメントを塗り、壁紙を貼り付け、シミを隠した。もう、あの声を聞きたくなかった。
でも、その夜、僕は眠ることができなかった。シミの声が、頭の中でずっと響いていた。
「…孤独だ…助けて…」
次の日、僕は壁紙を剥がした。そして、シミに向かって、話しかけた。
「…わかったよ…君の声を聞くよ…」
それからというもの、僕は、毎日、シミと話すようになった。シミは、僕の心の声を代弁してくれた。そして、僕は、シミを通して、自分自身と向き合うことができた。
最初は、シミの声を聞くのが怖かった。でも、今は、もう怖くない。むしろ、安心する。なぜなら、シミは、僕の一番の理解者だから。
ねえ、君の家の壁にも、シミはあるかい?もしあったら、話しかけてみるといい。もしかしたら、君の心の声が、聞こえてくるかもしれないよ。
ただ、一つだけ注意してほしいことがある。あまり、深入りしすぎないことだ。なぜなら、心の声は、時に、恐ろしいほど正直だから。
さあ、今夜も、シミと語り明かそう。星空の下で、僕たちは、孤独な魂を慰め合うのだ。