壁のシミは、気がつけばいつもそこにいた。引っ越してきた時から。最初はただの汚れだと思っていた。薄茶色の、曖昧な形のシミ。特に気に留めることもなく、日々を過ごしていた。
ある日、ふとシミが目に入った。いつもと違う気がした。気のせいか、少しだけ大きくなっているような。そして、何より奇妙なのは、その形。まるで、笑っている顔に見えたのだ。
私は目を疑った。疲れているせいだろうか。しかし、何度見ても、シミは笑っているように見えた。ニヤニヤと、薄気味悪い笑みを浮かべて。
その日から、私はシミが気になって仕方なくなった。毎日、シミを観察するようになった。シミは少しずつ、しかし確実に大きくなっていた。そして、その笑みも、日に日に深くなっていった。
夜中に目が覚めると、シミが気になった。暗闇の中で、シミはぼんやりと光っているように見えた。そして、笑い声が聞こえてくるような気がした。小さく、乾いた、不気味な笑い声。
私は眠れなくなった。シミのせいで、精神的に参ってしまった。医者に相談したが、「気にしすぎだ」と言われた。しかし、私には分かっていた。シミは、何か不吉な存在なのだと。
ある日、私は思い切ってシミを拭き取ろうとした。しかし、どんなに強くこすっても、シミは消えなかった。それどころか、拭くたびにシミは大きくなっていくようだった。
私は絶望した。シミは、物理的な汚れではなかった。それは、何か別のものだった。何か、この世のものではない、恐ろしい存在だった。
その晩、私は悪夢を見た。シミの顔が、巨大化して私を押しつぶそうとする夢だった。私は悲鳴を上げて飛び起きた。部屋は真っ暗だったが、壁のシミは、はっきりと笑っていた。
私は逃げ出した。家を出て、二度と戻らなかった。あの家に何が起こっているのか、知りたくもなかった。ただ、あのシミが、私を笑っていることだけは、はっきりと分かっていた。
数年後、私は別の街で、新しい生活を始めていた。あの家のことは、すっかり忘れていた。しかし、ある日、ふと立ち寄った古本屋で、奇妙な本を見つけた。
それは、古い民話集だった。何気なくページをめくっていると、ある物語が目に飛び込んできた。それは、壁のシミに宿る悪霊の話だった。悪霊は、人々の恐怖を糧に成長し、やがてその家を滅ぼすという。
私は背筋が寒くなった。あのシミは、まさにあれだったのだ。あの民話に語られている、悪霊だったのだ。
私は急いで家に戻った。何とかしなければならない。しかし、家はすでになくなっていた。跡形もなく、更地になっていたのだ。
私は呆然と立ち尽くした。そして、ふと、風に乗って聞こえてきた。小さく、乾いた、不気味な笑い声。それは、どこからともなく聞こえてきた。そして、私には分かった。シミは、まだ生きているのだ。どこかで、私を笑っているのだと。