壁に、それはあった。最初はただのシミだった。雨漏りのせいか、あるいは前の住人がこぼしたコーヒーの跡か。気にせず、僕は壁掛け時計を飾って隠した。
その夜、僕は寝室で奇妙な音を聞いた。微かな、囁きのような音。最初は気のせいだと思った。疲れていたのだろう。しかし、その音は毎晩聞こえるようになった。壁から、時計の裏から。
ある日、我慢できなくなって、僕は時計を外した。シミは、以前より濃くなっていた。そして、確かに囁いている。かすれた、低い声で、何かを訴えている。最初は聞き取れなかったが、耳を澄ませているうちに、言葉が聞こえてきた。「…返して…返して…」
ゾッとした。僕はそのシミをじっと見つめた。シミは、まるで生きているかのように、ゆっくりと形を変えていた。人の顔のような、歪んだ笑みを浮かべているようにも見えた。「何を返せばいいんだ?」僕は震える声で尋ねた。シミは囁き続けた。「…時間…返して…」
僕は時計を見た。秒針は止まっていた。いや、正確には、逆回転していたのだ。シミは、僕の時計の時間を奪っていたのだ。そして、その時間は、シミの…魂の一部になっていたのだ。僕は時計を壁から外し、シミに近づけた。すると、シミはゆっくりと時計の中に吸い込まれていった。代わりに、壁には何も残らなかった。ただ、静寂だけが残った。僕は新しい電池を時計に入れ、壁に掛け直した。今夜は、静かに眠れそうだ。たぶん。なぜなら、僕はもう一つの時計を持っていたから。それは、もっと古い、骨董品のような時計だった。そして、その時計の裏にも、同じようなシミが…