最終電車はいつもより少し遅れていた。ホームの蛍光灯は点滅し、焦燥感を煽る。僕は、今日あった出来事を頭の中で反芻していた。特に変わったことはなかった。いつものようにコーヒーを飲み、いつものように書類に判を押し、いつものように…
「次は、最終電車、〇〇行き、最終電車、〇〇行き…」
アナウンスが途切れ途切れに聞こえる。まるで壊れたレコードのようだ。ふと、隣に立つ男に目が行った。黒いスーツを着て、顔色は青白い。視線は一点を見つめ、微動だにしない。まるでマネキンのようだ。
(疲れてるのかな)
そう思い、僕は自分の世界に戻った。しかし、その男の姿が、どうにも頭から離れない。
やがて電車が到着した。僕は乗り込み、いつものように窓際の席に座った。車内は空いていて、ちらほらと乗客がいるだけだ。さっきの男も乗り込んできた。やはりマネキンのように、棒立ちでドアのそばに立っている。
電車はゆっくりと走り出した。窓の外は真っ暗で、光るものは何も見えない。トンネルに入ると、車内灯だけが頼りだ。
僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。すると、ふと気が付いた。さっきからずっと同じ景色が流れている。電柱も、家も、看板も、全く同じものが、永遠に繰り返されているのだ。
(おかしい…)
僕は背筋が寒くなった。これは、現実ではないのかもしれない。
僕は周りの乗客を観察した。誰も景色に気づいていないようだ。皆、うつむいていたり、眠っていたり、スマホを見ていたりする。まるで、何かから目を背けているかのようだ。
勇気を振り絞って、隣に座る女性に話しかけてみた。
「あの、すみません。景色が、おかしくないですか?」
女性は顔を上げ、ぼんやりとした目で僕を見た。そして、ゆっくりと口を開いた。
「ええ、おかしいわね。でも、もう慣れちゃった」
女性はそう言うと、またスマホに目を落とした。
(慣れちゃった…?)
僕は言葉を失った。これは、僕だけが見ている幻覚ではないのかもしれない。もしかしたら、この電車に乗っている全員が、同じ悪夢を見ているのかもしれない。
ふと、視線を感じた。ドアのそばに立っている男だ。男は、ゆっくりとこちらを向いた。そして、にやりと笑った。その笑顔は、ぞっとするほど不気味だった。
男は、何かを言おうとしているようだ。しかし、口はほとんど動かない。かすれた声で、何かを呟いている。
僕は耳を澄ませた。男の声は、徐々に大きくなっていく。
「降りられない…降りられない…降りられない…」
男の声が、車内に響き渡る。周りの乗客は、ようやく異変に気づいたようだ。皆、不安そうな顔で、男を見つめている。
僕も、恐怖で体が震えた。この電車は、一体どこへ向かっているのだろうか。そして、僕たちは、一体何から逃げているのだろうか。
突然、電車が急停車した。激しい衝撃で、乗客たちは前のめりになる。車内灯が消え、あたりは真っ暗になった。
悲鳴が上がり、混乱が広がる。僕は、必死に手すりにつかまった。
しばらくして、車内灯が再び点灯した。しかし、目の前の光景は、さらに恐ろしいものだった。
窓の外には、何も見えない。ただ、真っ黒な闇が広がっているだけだ。まるで、この電車が、世界の果てに迷い込んでしまったかのようだ。
そして、ドアのそばに立っていた男は、もういなかった。
代わりに、そこに立っていたのは…鏡だった。
僕は、自分の顔が映った鏡を見て、愕然とした。そこに映っていたのは、見覚えのない、青白い顔の男だったのだ。
(これは、夢だ…)
僕はそう思った。しかし、同時に、これが夢ではないことも知っていた。
これは、現実だ。そして、僕は、この電車から、永遠に降りることができないのだ。