その夜も、タクシー乗り場は酔客で溢れかえっていた。私は最後尾に並び、ぼんやりと空を見上げていた。星が瞬いている。いや、瞬いていない。点滅している。まるで故障したネオンサインみたいだ。
やっと順番が回ってきた。古ぼけたタクシーが、私の目の前に止まる。運転手は帽子を目深にかぶり、顔が見えない。私は行き先を告げた。「桜ヶ丘団地まで」。運転手は無言で頷き、タクシーは走り出した。
車内は異様に静かだった。ラジオも流れていない。運転手の咳払いすら聞こえない。私は気まずくなり、話しかけてみた。「今日は随分と賑やかですね」。運転手は答えなかった。私は再び話しかけた。「桜ヶ丘団地、最近は空き家が増えたって聞きましたけど」。それでも運転手は無言だった。まるで人形みたいだ。
ふと、バックミラーに目をやると、運転手の顔が見えた。青白い顔色で、目は虚ろ。まるで死んでいるみたいだ。私は背筋が凍り付いた。恐怖で声も出ない。
タクシーは桜ヶ丘団地に近づいてきた。街灯が少なく、あたりは真っ暗だ。タクシーは団地の中を走り抜け、一番奥の棟の前で止まった。そこは、かつて私が住んでいた部屋の前だった。今はもう誰も住んでいないはずだ。
運転手は振り返り、ニヤリと笑った。その顔は、私がよく知っている顔だった。それは、数年前に交通事故で亡くなった私の父親だった。「着いたぞ」と父親は言った。その声は、あの日のままだった。
私は震える足でタクシーを降りた。父親のタクシーは、ゆっくりと走り去っていく。私はぼうぜんと立ち尽くし、自分の部屋を見上げた。窓から、ぼんやりとした光が漏れている。私はゆっくりと階段を上り、自分の部屋のドアを開けた。
部屋の中には、誰もいなかった。しかし、テーブルの上には、一枚のメモが置いてあった。「お帰りなさい」と書かれていた。私はメモを握りしめ、涙が止まらなかった。あのタクシーは、一体何だったのだろうか。幽霊タクシー。父親の優しさなのか、それとも…