壁のシミが気になり出したのは、引っ越してきて三ヶ月が過ぎた頃だったか。最初はただの汚れだと思っていた。しかし、日が経つにつれ、それはぼんやりとした顔のように見えてきたのだ。眉、鼻、口…あるはずのないものが、そこにはっきりと浮かび上がっていた。
「まさか、見える人には見えるってやつか?」
独り言を言ったのは、誰かに聞いてほしかったからかもしれない。けれど、返事はなく、ただ静かに、シミは私を見つめ返していた。
その夜、眠りにつこうとした時、壁から小さな声が聞こえた。「…助けて…」
飛び起きた。心臓が早鐘のように鳴っている。幻聴だ、きっと。疲れているんだ、そう言い聞かせた。しかし、声は再び聞こえた。「…お願い…助けて…」今度は、さっきよりもはっきりと、そして悲しげに。
声の震源地は、やはり壁のシミだった。恐る恐る近づき、耳を澄ませた。「…苦しい…ここから出して…」
私は、壁のシミに懇願されている。そんな馬鹿げた状況に、笑いがこみ上げてきた。しかし、声は切実だった。試しに、壁を叩いてみた。「もしもし?誰かいるの?」
「…いる…ずっと、ここに…」
声は震え、途切れ途切れだったが、確かに誰かがいる。壁の中に。まさか、生き埋め…?過去の住人が、工事中に閉じ込められたとか…?想像力は、どんどん悪い方向へ向かっていく。
意を決して、壁のシミに触れてみた。冷たく、湿っていた。そして、微かに震えていた。心臓の鼓動のように。「…どうすればいい…?どうすれば、助けられる?」
「…絵を…描いて…」
絵?何の絵だ?疑問に思ったが、他に方法はない。私は、急いで画材を取り出した。そして、壁のシミを見つめながら、無心で絵を描き始めた。シミの形をなぞり、輪郭を強調し、感情を込めながら、色を塗り重ねていった。
朝が来た。壁には、奇妙な肖像画が完成していた。それは、悲しげな表情をした、見知らぬ人物の顔だった。そして、その絵から、再び声が聞こえた。「…ありがとう…」
安堵した私は、思わず絵に話しかけた。「どういたしまして。もう大丈夫なの?」
「…ええ。あなたは、私のことを解放してくれた。でも…」声は途絶え、代わりに、絵の顔がニヤリと笑った。「今度は、私があなたの番よ…」
次の日、壁のシミは消えていた。そして、私の顔が、そこに浮かび上がっていた。