壁のシミ憑き
古いアパートに引っ越した。家賃が信じられないほど安い。駅から徒歩三分。築五十年。壁紙は薄汚れていて、ところどころ剥がれかけていた。特に気になるのは、リビングの壁に広がった大きなシミだった。コーヒーをこぼしたような、あるいは地図のような、不思議な形をしていた。
「気にしなければ、お得ですよ」と不動産屋のおばさんは笑った。「前の住人が何かこぼしたんでしょう。クリーニングしても落ちなかったみたいで」
気にしないことにした。だって本当に、家賃が破格だったのだ。
引っ越して数日後、奇妙なことが起こり始めた。夜中に、壁の方からカサカサと音がするのだ。最初はネズミかと思ったが、どうも違う。もっとこう、紙を擦るような、乾いた音だった。恐る恐る壁に近づくと、シミがわずかに動いているように見えた。気のせいだろうか。
「疲れてるんだな」と自分に言い聞かせ、その日は眠りについた。しかし、次の夜も、またその次の夜も、カサカサという音は続いた。
そしてある夜、ついにその正体を目撃してしまった。
夜中の二時。トイレに起きてリビングを通ると、ぼんやりとした月明かりの中で、シミがゆっくりと形を変えているのが見えた。まるで、生き物のように。いや、生き物だった。シミは小さな手足を生やし、壁を這い回っていたのだ。
悲鳴を上げそうになったが、なんとか堪えた。シミは動きを止め、こちらをじっと見つめている。いや、見ているというより、感じている、という方が近いかもしれない。シミに目はない。ただ、そこに「何か」が存在しているのだ。
翌日、不動産屋のおばさんに電話した。「あの、壁のシミなんですけど…」
「シミ?ああ、あれね」とおばさんはあっけらかんと言った。「あれはね、壁の精霊みたいなものなのよ。このアパートには昔から住み着いていてね、時々動き回るの。でも、危害は加えないから、安心して」
「危害は加えないって…でも、気味が悪いです」
「そう?私は可愛いと思うけどね。たまに話しかけてあげると喜ぶわよ」
可愛い?話しかける?正気か、このおばさんは。
結局、アパートを引っ越すことにした。シミとの同居生活は、私には耐えられなかった。引っ越し当日、荷物を運び出す前に、シミに別れを告げることにした。
「さようなら、シミさん」と、私は壁に向かって言った。すると、シミはゆっくりと形を変え、まるで手を振っているかのように見えた。そして、壁に小さな文字が浮かび上がった。
「マタ、アオウ」
背筋がゾッとした。私は急いで荷物を運び出し、アパートを後にした。二度と、あの場所には近づかないだろう。
新しいアパートは、シミひとつない、清潔な部屋だった。しかし、夜になると、あのカサカサという音が、どこからともなく聞こえてくるような気がするのだ。そして、壁の隅に、わずかな染みが現れ始めた。