その日、私はいつものように喫茶店「星影」でクリームソーダをすすっていた。星影は、なんというか、時間が止まったような場所だった。古ぼけたベルベットの椅子、埃っぽいシャンデリア、そして何より、マスターの飄々とした佇まいがそう思わせるのかもしれない。私は星影の奥の、いつも決まった席に座り、ぼんやりと窓の外を眺めるのが好きだった。
その日、隣の席に一人の男が座った。背広姿の、いかにも会社員風の男だった。彼はハンカチを取り出し、額の汗を拭った。何の変哲もない光景だった。しかし、次の瞬間、私は自分の目を疑った。男がハンカチを畳んでポケットにしまうと、そのハンカチが、まるで煙のように、ゆっくりと消えていったのだ。
私は思わず声を上げそうになった。しかし、男は全く気付いていない様子で、新聞を広げ始めた。私は落ち着かない気持ちで、クリームソーダを飲み干した。そして、意を決して男に話しかけた。「あの、すみません…さっき、ハンカチが…」
男は新聞から顔を上げ、怪訝そうな顔で私を見た。「ハンカチ?ああ、これですか?」男はポケットからハンカチを取り出した。普通の、白いハンカチだった。私は言葉を失った。「いえ、あの…さっき、そのハンカチが、消えたように見えたんです…」私は正直に話した。
男は少しの間、私をじっと見ていた。そして、ゆっくりと口を開いた。「あなたは、幽霊を見たことがあるんですか?」私は首を横に振った。男は少し寂しそうな笑みを浮かべた。「私はね、時々見るんですよ。消えるハンカチの幽霊を」
私は背筋が寒くなった。「消えるハンカチの幽霊…?」「ええ。それは、昔、ハンカチをいつも持ち歩いていた男の幽霊なんです。その男は、ハンカチをとても大切にしていて、いつも綺麗にアイロンをかけて持ち歩いていた。でも、ある日、事故で亡くなってしまったんです。それから、その男のハンカチだけが、消えたり現れたりするようになったんです」
私は男の話に釘付けになった。「なぜ、ハンカチだけが?」「さあ、それは誰にもわかりません。ただ、そのハンカチは、男の魂の一部なのかもしれません。未練とか、愛情とか、そういうものが宿っているのかもしれません」男は、遠くを見つめるような目で言った。私は、男の話が作り話だとは思えなかった。なぜなら、男の表情が、あまりにも真剣だったからだ。
男はハンカチを丁寧に畳み、再びポケットにしまった。そして、「では、私はこれで」と言って、立ち上がった。私は慌てて男に尋ねた。「あの、あなたはその幽霊を何度も見ているんですか?」「ええ、時々ね。特に、雨の降る日に多いんです」男はそう言って、喫茶店を出て行った。
男が消えた後、私は呆然と立ち尽くしていた。消えるハンカチの幽霊…そんなものが本当に存在するのだろうか?私はマスターに尋ねてみた。「マスター、さっきの男の人、よく来るんですか?」「ああ、たまにいらっしゃるよ。いつもあんな感じだよ」マスターは、いつものように飄々とした口調で答えた。「あんな感じ?」「ええ。いつも、誰かに幽霊の話をしているんだ。消えるハンカチの幽霊とか、天井裏の笑い声とか、いろいろな話をしてくれるんだよ」
私は息を呑んだ。「じゃあ、あの話は…」「さあ、どうだろうね。でも、星影では、不思議なことがよく起こるからね」マスターはそう言って、ニヤリと笑った。その時、私は気が付いた。マスターの胸ポケットにも、白いハンカチが挿してあった。私は、恐怖で体が震えるのを感じた。