引っ越してきたばかりのアパートは、築年数こそ古かったものの、どこか懐かしい雰囲気が気に入っていた。特に、リビングの壁にできた、ぼんやりとしたシミ。コーヒーをこぼしたような、不均一な茶色い染みは、まるで抽象画のようにも見えて、私は毎日眺めていた。
最初は、ただの壁のシミだと思っていた。しかし、数日後、私はそのシミが、微かに動いていることに気が付いたのだ。
最初は気のせいだと思った。疲れているのだろうと。しかし、翌日、シミは明らかに形を変えていた。昨日は丸みを帯びていた部分が、少し伸びている。まるで、何かが壁の中で蠢いているかのようだった。私は、スマートフォンでシミの写真を撮り始めた。毎日、同じ時間、同じ場所から。後で比較するためだ。
そして、数日分の写真を並べてみると、驚愕の事実が浮かび上がってきた。シミは、ゆっくりと、しかし確実に、変化していた。まるで、生きているかのように。
恐怖に駆られた私は、アパートの管理人に連絡した。しかし、管理人は笑い飛ばした。「壁のシミなんてよくあることですよ。古い建物ですからね。気にしすぎですよ。」と。
取り合ってもらえなかった私は、自分で調べてみることにした。インターネットで「壁のシミ 動く」「壁のシミ 生き物」といったキーワードで検索を繰り返したが、それらしい情報は見つからない。まるで、私だけが見ている、秘密の現象のようだった。
ある夜、私は眠りにつこうとしていた。部屋は静まり返り、聞こえるのは冷蔵庫のモーター音だけ。ふと、私は壁のシミが気になった。薄明かりの中、シミを見つめていると、それは、まるで誰かの顔のように見えた。いや、顔というより、もっと抽象的な、何かを訴えかけるような形。そして、そのシミが、かすかに、何かを囁いているように感じたのだ。「助けて…」
私は飛び起きた。心臓が激しく鼓動している。シミは、相変わらず壁にへばりついている。しかし、その形は、今にも崩れ落ちそうなほど歪んでいた。私は、シミに向かって叫んだ。「誰なの?一体何が起こっているの?」。
すると、シミはゆっくりと、その形を変え始めた。それは、まるで粘土細工のように、ゆっくりと、しかし確実に形を変えていく。そして、最後に現れたのは、小さな、小さな、茶色い手が、壁から伸びてきたのだ。「ありがとう…」という、か細い声とともに。
その瞬間、壁のシミは、完全に消え去った。代わりに、壁には、小さな穴が開いていた。私は、恐る恐る穴を覗き込んだ。暗闇の奥には、何かが光っていた。それは、古い、錆び付いた、小さな鍵だった。
私は、その鍵を拾い上げた。鍵には、見慣れない文字が刻まれていた。私は、その鍵を握りしめ、アパートを出た。どこへ行くかは、まだわからない。しかし、私は知っている。この鍵が、私をどこかへ導いてくれることを。そして、その場所には、壁のシミの秘密が隠されていることを。