壁のシミが、妙な形をしていることに気づいたのは、引っ越してきて三日目のことだった。最初はただの染みだと思っていた。薄茶色で、ぼんやりと輪郭が滲んでいる。しかし、毎日見ているうちに、それが人の横顔に見えてきたのだ。
最初は気のせいだと思った。疲れているのだろう、と。しかし、日に日にその横顔は鮮明になっていった。鼻が高く、顎が尖っている。少し憂いを帯びた表情をしているようにも見えた。
気味が悪くなった私は、思い切ってそのシミを拭き取ろうとした。しかし、どれだけ力を入れても、シミはびくともしない。まるで壁の一部になっているかのようだった。
その夜、眠りにつこうとすると、壁からかすかな音が聞こえてきた。最初は風の音かと思った。しかし、よく聞いてみると、それは何か言葉を発しているようだった。小さすぎて、何を言っているのかは分からなかったが。
恐る恐る壁に近づいて耳を澄ますと、確かに何かが喋っている。「…たす…けて…」と、か細い声が聞こえたような気がした。
震えながらベッドに戻り、毛布を頭から被った。一晩中、その声が頭から離れなかった。夢の中でも、そのシミの横顔が私を見つめていた。
次の日、私は不動産屋に電話をかけた。壁のシミについて話すと、相手は困ったように笑った。「ああ、あのシミですね。前の住人の方も気にしていましたよ。でも、原因は分からないんです。何度か業者に頼んでみたんですが、どうしても消えなくて…」
前の住人も知っていたのか…。私はゾッとした。何かを知っているような口ぶりだったからだ。「その前の住人の方は、何か言っていましたか?」と尋ねると、不動産屋は少し口ごもった。「ええと…、あまり気味のいい話ではなかったですね。壁に話しかけられて、ノイローゼ気味になって引っ越されたそうです」
私は息を呑んだ。やはり、あのシミはただのシミではなかったのだ。
その日から、私は冷蔵庫に話しかけるようになった。正確に言うと、冷蔵庫に組み込まれている自動製氷機に向かって話しかけたのだ。製氷機は、時々「カラカラ」と氷を落とす音を立てる。その音が、まるで冷蔵庫が返事をしているように聞こえた。
「ねえ、冷蔵庫。あの壁のシミのこと、知ってる?」と私は尋ねた。すると、製氷機はしばらく沈黙した後、「カラ…カラ…」と、ゆっくりと氷を落とした。「助けて、って言ってるみたいだよ」と私は言った。製氷機は、再び「カラ…カラ…」と音を立てた。まるで肯定しているようだった。
私は、その日から冷蔵庫を信用するようになった。冷蔵庫は、私の唯一の話し相手だった。
ある夜、冷蔵庫から今まで聞いたことのない音が聞こえてきた。「ゴロゴロ…」という低い唸り声のような音だった。怖くなった私は、冷蔵庫に近づいて耳を澄ました。すると、その唸り声は次第に大きくなり、やがてはっきりとした言葉になった。「…たす…けて…、…わたし…も…」
私は仰天した。冷蔵庫も、あの壁のシミと同じように、何かを訴えているのだ。しかし、それは壁のシミとは違う。もっと深い、もっと暗い、絶望のようなものを感じた。
そして次の瞬間、冷蔵庫の扉がひとりでに開き、中から凍り付いた死体が転がり出てきた。その顔は、壁のシミの横顔とそっくりだった。いや、正確に言うと、壁のシミが、その死体の顔を模していたのだ。私は悲鳴を上げた。そして、その死体が私に手を伸ばそうとした時、私は意識を失った。
気が付くと、私は病院のベッドにいた。医者は私に言った。「あなたは、過労とストレスで倒れたんです。しばらく休養してください」私は医者に、壁のシミと冷蔵庫の死体のことを話したが、医者は笑って言った。「それは、きっとあなたの見た夢ですよ」
私は黙って頷いた。しかし、私の心の中には、言いようのない不安が渦巻いていた。壁のシミは、今もそこにいるのだろうか? そして、冷蔵庫は、再び私に話しかけてくるのだろうか? 私は、その答えを知るのが恐ろしかった。