壁の染みは、じっと見ていると人の顔に見えてくることがある。特に古いアパートの、日当たりの悪い部屋では、その傾向が強い。僕が住んでいた六号室も例外ではなかった。最初はただの汚れだと思っていたものが、日に日に輪郭をはっきりさせ、薄ぼんやりとした表情を浮かべるようになった。
僕は小説家志望の、売れないライターだった。締め切りに追われ、コンビニ弁当ばかり食べる毎日。部屋はいつも散らかり放題で、壁の染みなんて気にする余裕もなかった。しかし、ある夜、ふと目を覚ますと、染みがこちらをじっと見つめていた。いや、見つめているように感じた、と言うべきか。
それは夢だったのかもしれない。疲れていたのだろう。そう自分に言い聞かせたが、翌日も、また翌日も、染みの顔は少しずつ変化していった。笑顔になったり、怒った顔になったり、悲しそうな表情になったり。まるで、僕の心模様を映し出しているかのようだった。
僕は気味が悪くなり、大家さんに相談してみた。「ああ、あの染みね。昔からあるんだよ。前の住人が孤独死した部屋でね」大家さんはあっけらかんとそう言った。孤独死? 僕は背筋が寒くなった。染みの正体は、亡くなった住人の怨念なのか? それとも、ただの偶然か?
それからというもの、僕は染みの顔から目が離せなくなった。染みは、僕の生活を監視しているようだった。原稿が進まないと不機嫌そうな顔になり、美味しいものを食べると嬉しそうな顔になる。まるで、僕の心の声が染みに伝わっているかのようだった。
ある日、僕はふと思いついた。この染みの話を小説に書いてみよう、と。もしかしたら、これが僕のデビュー作になるかもしれない。僕は、染みの顔を見ながら、パソコンに向かった。
書き始めると、まるで何かに取り憑かれたように、筆が進んだ。染みの顔は、僕の文章に合わせて、様々な表情を見せた。喜び、悲しみ、怒り、そして、恐怖。僕は、染みの顔を見つめながら、ひたすら文章を書き続けた。
数日後、僕はついに小説を完成させた。タイトルは「壁の染み」。孤独死した男の怨念が宿った染みと、売れないライターの奇妙な交流を描いた物語だ。僕は、完成した原稿をプリントアウトし、染みの顔に見せた。
染みの顔は、ニヤリと笑ったように見えた。そして、その時、僕は気づいた。この小説は、僕が書いたものではない、と。染みが、僕に書かせたのだ。染みは、自分の物語を世に広めるために、僕を利用したのだ。
僕は恐怖に震えながら、原稿をゴミ箱に捨てた。しかし、その時、ゴミ箱の中から声が聞こえた。「捨てないでくれ」声は、染みの顔から発せられていた。染みは、僕に懇願するように言った。「私の物語を、世に広めてくれ。さもないと、お前を…」
僕は、染みの脅迫に屈し、再び原稿を拾い上げた。そして、出版社に送った。数週間後、僕の小説「壁の染み」は、見事、出版されることになった。僕は、作家としてデビューすることができた。しかし、その代償として、僕は染みのしもべとなったのだ。
小説は大ヒットし、僕は一躍人気作家となった。しかし、僕の心は、いつも恐怖に苛まれていた。染みの顔は、いつも僕を監視し、僕の行動をコントロールしようとした。僕は、染みから逃れることができなかった。
ある日、僕は、染みの顔に逆らうことを決意した。僕は、新しい小説を書くことにした。それは、染みの物語ではなく、僕自身の物語だった。僕は、自分の心に正直に、自分の書きたいことを書いた。
しかし、染みの顔は、それを許さなかった。染みは、僕に嫌がらせをするようになった。眠れない夜が続いたり、原稿が消えたり、様々な災難が僕を襲った。それでも、僕は諦めなかった。僕は、自分の物語を書き続けた。
そして、ついに、僕は新しい小説を完成させた。タイトルは「自由への逃走」。僕は、完成した原稿を染みの顔に見せた。染みの顔は、激しく怒り、歪んだ表情になった。そして、次の瞬間、染みの顔は、跡形もなく消え去った。壁には、ただの染みだけが残っていた。僕は、染みから解放されたのだ。しかし、本当にそうだろうか? もしかしたら、新しい染みが、僕の部屋に現れるかもしれない。その時、僕はどうすればいいのだろうか? 僕は、これからも、小説を書き続けるだろう。それが、僕の生きる道だから。