深夜の住宅街。静寂を破るのは、古びた自動販売機のうなりだけだった。いや、正確には、うなりと、何かを叩きつけるような鈍い音。僕は、犬の散歩をしていた。いつも通る道だが、今日は何かが違う。自動販売機は、いつものように蛍光灯をチカチカさせている。だが、その上部、飲み物のサンプルが並んでいるはずの場所に、何もない。
正確に言うと、何もないのではない。何かがあるべき場所に、何もないのだ。自動販売機は、首を失っていた。
僕は、目を疑った。酔っ払いのいたずらか? それとも、悪質な窃盗事件? だが、周辺に散らばった破片や、こじ開けられた跡はない。ただ、自動販売機の上半分が、すっぽりと消えていた。代わりに、そこには、錆びた金属の切り口が、無機質に夜風にさらされていた。
犬は、自動販売機を見上げて、低い声で唸り始めた。普段は人懐っこい犬だが、今日は明らかに警戒している。僕は、犬をなだめながら、自動販売機に近づいた。コイン投入口は、埃まみれで、何の変哲もない。だが、ふと、下の方に目をやると、お札の挿入口の奥に、何かが見えた。
それは、紙幣の一部だった。千円札だろうか? いや、違う。それは、お札の端切れに、びっしりと文字が書き込まれたものだった。
僕は、お札の端切れを引っ張り出した。指先が震えた。それは、びっしりと書き込まれた文字で埋め尽くされていた。判読しづらい走り書きで、ところどころ滲んで読めない部分もある。
「…カエセ…アタマ…カエセ…」
単語は、それだけだった。同じ言葉が、何度も、何度も、繰り返されていた。まるで、誰かが、狂ったように書き綴ったかのようだった。
僕は、背筋が寒くなった。犬は、さらに激しく唸り始めた。自動販売機は、相変わらず、鈍い音を立てている。それは、まるで、恨めしげに鳴き叫んでいるかのようだった。
僕は、急いでその場を離れた。犬を抱きかかえ、家路を急いだ。背後から、あの鈍い音が、追いかけてくるように聞こえた。
家に帰ると、僕は、お札の端切れを机の上に置いた。蛍光灯の下で、改めて見てみると、文字はさらに不気味さを増していた。インクの色は、黒ではなく、どす黒い赤色だった。まるで、血で書かれたかのようだった。
僕は、インターネットで、「自動販売機 首なし」というキーワードで検索してみた。すると、いくつかの掲示板で、同様の現象が報告されていることがわかった。場所も時間もバラバラだが、共通しているのは、自動販売機が、首を失っていること、そして、お札の挿入口から、同様のメッセージが書かれた紙片が見つかることだった。
ある掲示板には、こんな書き込みがあった。「あれは、祟りだ。昔、自動販売機を粗末に扱った業者が、呪いをかけたんだ。首を失った自動販売機は、その祟りによって、自我を持ち、首を求めて彷徨っているんだ…」
僕は、一笑に付した。そんな迷信を信じるわけがない。だが、あの夜の自動販売機の不気味さ、犬の異常な反応、そして、あの血文字で書かれたメッセージは、どうしても頭から離れなかった。
次の日、僕は、意を決して、再びあの自動販売機がある場所へ向かった。昼間の住宅街は、静かで平和だった。自動販売機は、昨日と変わらず、無残な姿でそこに立っていた。
だが、昨日と違うのは、自動販売機の前に、若い女性が立っていたことだった。彼女は、自動販売機をじっと見つめ、何かブツブツと呟いていた。僕は、彼女に声をかけた。
「あの…何かご用ですか?」
女性は、ゆっくりとこちらを振り返った。その顔は、青ざめていて、目は虚ろだった。
「これ…私の…アタマ…」
彼女は、そう呟くと、自動販売機に手を伸ばした。そして、自動販売機の切り口に、自分の首を押し当てようとした。
僕は、慌てて彼女を止めようとした。だが、その時、自動販売機が、再び鈍い音を立て始めた。それは、昨日よりもずっと大きく、ずっと悲痛な音だった。
次の瞬間、自動販売機は、激しい音を立てて爆発した。破片が飛び散り、周囲は一瞬にして瓦礫の山と化した。僕は、咄嗟に身を伏せ、爆風から身を守った。
爆発が収まると、僕は、ゆっくりと顔を上げた。自動販売機は、完全に破壊されていた。そして、あの若い女性の姿も、消えていた。ただ、瓦礫の中に、何か光るものが落ちているのが見えた。
それは、金属製のプレートだった。自動販売機の側面に取り付けられていたものだろうか。プレートには、こう刻まれていた。
「株式会社 ニホン・オートマチック・ヘッドサービス」
僕は、そのプレートを拾い上げ、呆然と立ち尽くした。そして、再び、あのメッセージが頭をよぎった。
「…カエセ…アタマ…カエセ…」
もしかしたら、自動販売機は、本当に自分の頭を求めていたのかもしれない。そして、あの若い女性は、その頭の持ち主だったのかもしれない。だが、それは、永遠に解けない謎のまま、闇に葬り去られるだろう。
僕は、プレートを握りしめ、家路についた。夜空には、満月が輝いていた。そして、その月明かりの下には、無数の自動販売機が、静かに佇んでいた。