深夜零時を回った頃だろうか。雨上がりのアスファルトが、街灯の光をぎらぎらと反射していた。私は最終電車を逃し、仕方なくタクシー乗り場に並んでいた。他に客は誰もいない。蒸し暑さがまとわりつき、じっとりと汗がにじむ。
一台のタクシーが、エンジンの唸りを上げて私の前に停まった。運転手は帽子を目深にかぶり、顔は見えない。
「どちらまで?」
掠れた声が聞こえた。私は住所を告げた。
「ああ、あそこですか。少し遠いですよ」
運転手はそう言うと、メーターを倒し、タクシーはゆっくりと走り出した。車内は妙に静かだった。ラジオも流れていない。運転手は一言も話さない。私は退屈しのぎに窓の外を眺めた。雨上がりの夜景は、いつもより少しだけ幻想的に見えた。
しばらく走っていると、急に背中がゾクッとした。まるで誰かに叩かれたような感覚だ。私は振り返ったが、後部座席には誰もいない。気のせいかと思い、再び前を向いた。しかし、すぐにまた背中が叩かれた。今度はさっきより強い力だ。
「運転手さん、何かありましたか?」
私は声をかけた。しかし、運転手は答えなかった。肩を震わせ、何かを必死にこらえているようにも見える。
また背中が叩かれた。今度は明確な意思を感じる。トントン、トントン。まるで誰かがリズムを刻んでいるようだ。私は恐怖を感じ、身を縮こまらせた。
「運転手さん、止まってください!ここで降ろしてください!」
私は叫んだ。しかし、運転手は無視してタクシーを走らせ続ける。背中の叩きはますます激しくなった。
私は覚悟を決めた。次の信号でタクシーが止まったら、すぐに飛び降りよう。そう思って身構えていると、信号が赤に変わった。タクシーはゆっくりと停止した。
その瞬間、私はドアを開け、外に飛び出した。背後から運転手の怒号が聞こえた気がしたが、構わず走り続けた。
息を切らしながら、近くのコンビニに駆け込んだ。店員に事情を説明し、警察に通報してもらった。
警察が到着し、事情聴取を受けた。私はタクシーの色や車種、運転手の特徴などを伝えた。しかし、警察は困惑した表情を浮かべていた。
「お客様、申し訳ありませんが、その時間にタクシー乗り場にタクシーは一台もいませんでしたよ」
私は耳を疑った。そんなはずはない。私は確かにタクシーに乗ったのだ。背中を叩く幽霊タクシーに。
結局、タクシーは見つからなかった。警察は私の証言を信じているようには見えなかった。私は自宅に帰り、眠りについた。しかし、夢の中でも背中を叩かれる感覚が消えなかった。
数日後、私は再びタクシー乗り場に立っていた。あの夜の恐怖はまだ消えていない。しかし、どうしてもタクシーに乗らなければならない用事があったのだ。
一台のタクシーが私の前に停まった。運転手は帽子を目深にかぶり、顔は見えない。
「どちらまで?」
あの夜と同じ、掠れた声が聞こえた。私は全身の血の気が引くのを感じた。
「お客様、どうかされましたか?」
運転手は不思議そうな顔をしている。私は意を決して運転手の顔を見た。
それは、見覚えのない若い男だった。
「あ、あの、すみません。人違いでした」
私は慌ててタクシーを降り、別のタクシーを拾った。
そのタクシーの中で、私はふと気が付いた。背中の叩きは、もう感じなくなっていた。
しかし、家に帰って服を脱いだ時、私は再び恐怖に襲われた。私の背中には、無数の小さな手形が、薄赤く浮かび上がっていたのだ。