壁のシミが、まるで古い地図のようだと気づいたのは、引っ越してきて三日目の夜のことだった。ぼんやりとした月の光が、寝室の壁に浮かぶシミを照らし出し、それが単なる汚れではない、何か意味のある形をしているように見えたのだ。
僕は、子供の頃から地図が好きだった。冒険小説に出てくる宝の地図を真似て、近所の公園や裏山の地図を描いたものだ。だから、壁のシミを見た瞬間、胸がざわめいた。これは、どこか知らない場所への道標かもしれない、と。
その夜から、僕は毎晩、壁のシミを観察するようになった。最初はただの好奇心だったが、次第にそれは強迫観念に変わっていった。シミは、日によって微妙に形を変えるように見えた。月の満ち欠け、部屋の湿度、そして僕自身の心の状態によって、シミは様々な表情を見せた。
ある夜、僕は、壁のシミがまるで顔のように見えることに気づいた。それは、ひどく苦悶に満ちた顔だった。口は大きく歪み、目は見開かれ、まるで何か恐ろしいものを見ているようだった。僕はゾッとした。壁のシミは、ただの汚れではない。何かの記憶、あるいは魂の叫びなのかもしれない。
その日から、僕は眠れなくなった。夜になると、あの苦悶に満ちた顔が、じっと僕を見つめているような気がした。僕は壁に背を向けて寝ようとしたが、それでもあの顔の視線を感じた。それは、まるで重い石のように、僕の心を押しつぶした。
僕は、壁のシミについて調べることにした。インターネットで、古い家のシミに関する情報を検索した。すると、古い家には、過去の住人の記憶や感情が染み込んでいることがあるという記事を見つけた。中には、シミが人の形になって現れ、住人に不幸をもたらすという事例もあった。
僕はますます不安になった。壁のシミは、まさにそれなのかもしれない。過去の住人の苦しみ、あるいは、この家に閉じ込められた魂の叫びなのかもしれない。僕は、何とかしてこのシミを取り除かなければならないと思った。
僕は、様々な方法を試した。洗剤、漂白剤、研磨剤、あらゆるものを試したが、シミはびくともしなかった。それどころか、シミは日に日に濃くなっていくように感じた。あの苦悶に満ちた顔は、ますます鮮明になり、まるで生きているようだった。
ある夜、僕は夢を見た。夢の中で、僕は壁のシミの中に吸い込まれた。そこは、暗くじめじめした部屋だった。部屋の中央には、ぼろぼろの椅子があり、そこに一人の男が座っていた。男は、苦悶に満ちた顔で、何かを訴えようとしていた。
夢から覚めた僕は、汗びっしょりだった。僕は、あの男が誰なのか、なぜ苦しんでいるのかを知らなければならないと思った。僕は、この家の過去の住人について調べることにした。
図書館で、僕は古い住宅地図や登記簿を調べた。すると、この家には、かつて一人の画家が住んでいたことがわかった。画家は、才能に恵まれていたが、精神を病んでいて、しばしば奇妙な行動をとっていたという。そして、ある日、画家は自分の部屋で自殺した。
僕は、すべてを理解した。壁のシミは、画家の魂の叫びだったのだ。画家は、自分の苦しみを誰かに訴えたかったのだ。僕は、画家のために何かしてあげられることはないだろうかと考えた。
僕は、画家の絵を探すことにした。古本屋やオークションサイトを調べたが、画家の絵は見つからなかった。しかし、ある日、僕はインターネットで、画家の名前を検索した。すると、ある美術評論家のブログに、画家の絵に関する記事が掲載されていた。
記事には、画家の代表作である「苦悶の肖像」という絵の写真が掲載されていた。その絵を見た瞬間、僕は息をのんだ。それは、まさに壁のシミに浮かび上がっていた顔そのものだった。
僕は、その絵をプリントアウトして、壁に飾った。すると、壁のシミは、まるで消えるように薄くなっていった。そして、その夜、僕は久しぶりにぐっすりと眠ることができた。壁のシミは、もう二度と現れることはなかった。ただ、時々、僕はあの苦悶の肖像を眺めながら、画家の魂が安らかに眠っていることを願うのだ。