壁のシミ、語り出す夜
古びたアパートの一室、僕の悩みは増え続ける壁のシミだった。最初は小さかったそれが、まるで地図のように広がり、色も濃くなってきた。気味が悪いので、何度か拭き取ろうとしたが、まるでインクのように染み付いて、びくともしない。
ある夜、いつものようにシミを見つめていると、かすかな音に気づいた。「…助けて…」
最初は気のせいかと思った。疲れているのだろう。しかし、その声は再び聞こえた。「…ここから…出して…」
恐る恐るシミに近づき、耳を澄ます。確かに、シミの中から声が聞こえる。「誰だ?」と尋ねると、弱々しい声で答えた。「…私は…閉じ込められた…」
シミは、異次元への入り口だったのだ。
それからというもの、毎晩シミは語りかけてきた。閉じ込められた人の話、恐ろしい世界の様子、そして、私に助けを求めてくる。最初は半信半疑だったが、次第に信じるようになった。シミは、ただの汚れではなく、悲痛な叫びだったのだ。
僕は、シミから聞こえる声の主に同情し、何とかして助けたいと思った。しかし、どうすればいいのか見当もつかない。インターネットで調べたり、知り合いに相談したりしたが、誰も信じてくれなかった。「疲れているんだ」「変な夢を見たんだろう」と一笑に付されるだけだった。
そんなある日、シミの声が突然途絶えた。
僕は焦った。何かあったに違いない。いてもたってもいられず、シミに手を触れた。その瞬間、強烈な光に包まれ、意識を失った。
気がつくと、僕は見慣れない場所に立っていた。そこは、シミから聞こえていた世界とそっくりだった。異形の生物が蠢き、空気は淀み、絶望だけが蔓延している。
その時、背後から声がした。「…ありがとう…」
振り返ると、シミの声の主が立っていた。しかし、その姿は想像していたものとは全く違っていた。醜く、おぞましい姿をした怪物だったのだ。
「…お前のおかげで…私は…この世界から…逃げられる…」
怪物は、ニヤリと笑った。
次の瞬間、僕は再び光に包まれ、意識を失った。
気がつくと、僕はアパートの部屋にいた。壁のシミは消え、代わりに、鏡のようなものが埋め込まれていた。
恐る恐る鏡を覗き込むと、そこに映っていたのは、あの怪物の姿だった。
そして、声が聞こえた。「…今度は…私が…そちらの世界に…」