深夜、男は帰宅した。疲れた顔で玄関の鏡を見た。その鏡は、古道具屋で見つけたアンティークだった。妙に歪んだフレームと、鈍く光るガラスが気に入っていた。
「ただいま」
男は呟いた。鏡の中の男も同じように口を開いた。「ただいま」と聞こえた気がした。気のせいだろう。彼はそう思った。
翌朝、男は出勤前に鏡を見た。ネクタイが少し曲がっている。直そうと手を伸ばすと、鏡の中の男も同じように手を伸ばした。だが、その手が男のネクタイに触れることはなかった。鏡の中の男は、ただ、男をじっと見つめていた。
「変だな」
男は独り言を言った。鏡の中の男は何も言わなかった。ただ、少しだけ微笑んだように見えた。
その晩、男は残業で遅くなった。帰宅すると、家の中は真っ暗だった。電気をつけようとした時、ふと玄関の鏡が目に入った。鏡の中の男は、薄暗い中でもはっきりと見えた。そして、笑っていた。ニヤニヤと、不気味な笑みを浮かべて。
「誰だ?」
男は問い詰めた。鏡の中の男は答えない。ただ、笑い続けている。男は恐怖を感じた。それは、自分ではない何かが、鏡の中にいるという確信だった。
次の日、男は古道具屋へ向かった。あの鏡について何か知っているのではないかと思ったのだ。店主は、古びた眼鏡の奥から男を見つめた。
「ああ、あの鏡ですか。あれはね、いわくつきなんですよ」
店主は低い声で言った。「あれに映った人間は、少しずつ鏡の中に取り込まれていくって話ですよ。気づかないうちにね…」
男は背筋が凍った。店主は続けた。「取り込まれた人間は、二度と元の世界には戻れない。ただ、鏡の中で生き続けるだけです」
男は急いで家に帰った。玄関の鏡を見た。鏡の中の男は、完全に男と入れ替わっていた。男の顔、男の服装、男の表情。全てが鏡の中にあった。そして、鏡の中の男は、満足げに笑っていた。
男は鏡に手を伸ばした。すると、鏡の中の男も同じように手を伸ばしてきた。二人の手が触れ合った瞬間、男は強烈な光に包まれた。
男は消えた。後に残ったのは、笑みを浮かべた鏡だけだった。その鏡は、新しい犠牲者を待っている。誰もが自分の顔を映し出す、その瞬間を。