壁のシミは、最初、ただのシミだった。
築五十年の木造アパート。家賃は破格の安さ。日当たりは最悪。それでも、背に腹は代えられない。僕はそこに引っ越した。画家志望の、貧乏な青年だった。
シミは、入居当初からあった。北側の壁、ちょうどベッドの頭のあたり。最初は小さく、目立たなかった。しかし、日が経つにつれ、シミは徐々に大きくなった。不気味なことに、形も変化していった。まるで、生き物のように。
僕は気にしないように努めた。絵を描くことに集中した。しかし、どうしても視界に入ってくる。夜中にふと目を覚ますと、シミが蠢いているように見えた。気のせいだ、と自分に言い聞かせた。
ある夜のことだ。僕は夢を見た。夢の中で、シミが僕に話しかけてきたのだ。「苦しい…助けて…」
夢から覚めた僕は、全身に冷や汗をかいていた。シミは相変わらず、壁に張り付いている。しかし、夢のせいだろうか、シミが以前よりも大きく、そして、より不気味に見えた。
その日から、僕は眠れなくなった。シミが夢に出てくる。毎日毎日、同じ言葉を繰り返す。「苦しい…助けて…」
僕はノイローゼ気味になった。絵も描けなくなった。友人に相談したが、誰にも信じてもらえなかった。「気のせいだ」「疲れているんだ」
藁にもすがる思いで、僕はアパートの大家さんに相談した。大家さんは、古びたタバコをくわえながら、こう言った。「ああ、あのシミね。気にしちゃいかんよ。あれは、昔、このアパートで亡くなった人の血痕だって話だ」
僕はぞっとした。血痕?人が死んだ?大家さんは、話を続けた。「その人は、病気で孤独死したらしい。発見されたのは、数日後。壁に寄りかかって、苦しみながら死んだそうだ」
僕は震え上がった。夢で聞いた言葉、「苦しい…助けて…」が頭の中でリフレインする。もしかしたら、あのシミは、死んだ人の魂なのかもしれない。
僕は、その夜、眠れなかった。シミは、いつもより一層、大きく、そして、黒ずんで見えた。まるで、何かを訴えかけているかのようだ。
深夜、僕は突然、何かに突き動かされるように、立ち上がった。そして、筆と絵の具を手に取り、壁に向かった。僕は、シミの上に、絵を描き始めたのだ。死んだ人が苦しんでいる姿を、克明に、そして、狂ったように。
気がつくと、朝になっていた。壁一面には、おぞましい絵が描かれていた。死んだ人が、苦しみ悶えている姿。その絵は、あまりにもリアルで、見る者を凍りつかせるほどの迫力があった。
しかし、奇妙なことが起こった。その日を境に、シミは消えてなくなったのだ。そして、夢にも、死んだ人は現れなくなった。
僕は、その後、絵を描くことをやめた。あの壁に描いた絵が、僕の魂を奪ってしまったのだ。僕は、ただの抜け殻になった。アパートも引っ越した。しかし、どこに行っても、あの壁の絵が、僕の頭から離れない。
今でも、時々、僕はあの壁の夢を見る。夢の中で、死んだ人は、静かに微笑んでいる。そして、こう言うのだ。「ありがとう…楽になったよ…」
僕は、今日も、眠れない夜を過ごす。壁のシミは消えた。しかし、僕の心には、永遠に、消えないシミが残ってしまったのだ。